ASD 心の暗い部分を晒します
こんにちは、久しぶりのブログです。
ちょっと違う作業が立て込んでいて、文章書きまくりなこの頃ですが……
色々と面白いやり取りがあったのでブログにしたためようと思いました。
ASDの立場の意見が聞けるところもTwitterのいいところですよね、ありがたい
— すめしwithあすぺるハニー (@sumelog) August 18, 2019
ただそんなツイッターでもASD当事者がASDゆえの
・それなりに深い心の傷
・葛藤
・努力
の中身がわかるように発信している人が少なくて、私のASDの理解の妨げになっています
引き続き貴重な発信、お待ちしております😊 https://t.co/2pCHNAMnXd
これを読んで、なるほどなと思ったのです。
まず、このツイートに関して「嬉しい」という気持ちと、「失礼だな」という気持ちがあることをご理解いただきたい。
「嬉しい」というのが定型目線で
「失礼だな」というのがASD目線です。
このツイート一つを取ってみても、これだけ感じ方が違うんです。
私はこれを「言語の違い」として捉えています。
もう少しわかりやすくかみ砕くと、「思考回路の違い」と受け取れるかもしれません。
まず、「嬉しい」と思った気持ちのほうから解説します。
このツイートは私の暴言に対するツイートです。
「舐めんなよ!?」という怒りに対して、そういう意見が聞きたかったと言ってくださいました。こちらとしても、ありがたい限りです。
「暴言吐きますよ」という私の怖いな、嫌われたらどうしよう、という心に寄り添って暖かい返信をしてくださっている。と理解しています。
次に、「失礼だな」と思った気持ちを解説します。
中身がわかるように発信している人が少ない、というのにムカッとします。
「わかるように」というのがどれだけ難しいことか、そんな『当たり前』のことも理解できないのか。
しかも、「引き続き貴重な発信、お待ちしております」って上から目線。どうしてそんなに偉そうに言えるんだろうなと感じます。
上記二つの意見を対比してわかるように、「嬉しい」は理解していて、「失礼だな」は感じているんです。
要は私の気持ちはASDなのですが、定型の人が言うことも理解できます。
それなりに深い心の傷、葛藤、努力を晒す前にもう一つ説明したいことがあります。
先ほども書いた「言語の違い」ですね。
私がなぜ「思考回路の違い」ではなく「言語の違い」と書くのかは後程説明します。
仮にお互いの言語を「定型言語」「ASD言語」としてみましょうか。
例えば
『そこは「ありがとう」って言った方がいいよ』と言われたとします。
定型言語
そっか、ここは「ありがとう」と感謝の態度を示す場面なんだ。実際はありがとうなんて思っていないけど、アドバイスをもらったし「ありがとう」と言ったほうが良いな。
⇒ありがとうと言う
ASD言語
自分は「ありがとう」と思ってないよ。思ってもいないのに「ありがとう」と言ったら嘘をつくことになってしまう。それは良くないことだ。
⇒ありがとうと言わない
さてさて、定型言語の皆様はASD言語の人にどうして「ありがとう」と言うか説明できますか?
逆に、ASD言語の皆様は定型言語に「ありがとう」と言わない理由を説明できますか?
ここで焦点のなってくるのは「どうして」と「理由」というところです。この時点でお互いの「言語」が違うことがわかると思います。
では、何となく中間地点に立っていると自負している私がお互いの言語を「翻訳」してみます。
ASD言語の皆様へ どうして「ありがとう」と言うか
この例題には3人の登場人物がいます。自分、アドバイスをしてくれた人、ありがとうと伝える相手。思ってもいないのに「ありがとう」というのは不誠実に感じるかもしれません。とは言うものの、アドバイスをしてくれた人も、ありがとうと伝える相手も、あなたが嘘をついて「ありがとう」と言ったからって「不誠実な人」とは思いません。なぜなら心の中身は自分にしか見えないからです。「不誠実な人」と思われる理由はもっと別なところにあります。気持ちの説明をすると、アドバイスをしてくれた人は「どうしてありがとうって言ってくれないんだろう悲しいな」ありがとうを伝える相手は「感謝されるようなことをしたのに寂しいな」と思っているかもしれません。ならば2人の気持ちに寄り添って「ありがとう」と言ってあげましょう。優しい嘘は人を喜ばせることができますよ。
定型言語の皆様へ 「ありがとう」と言わない理由
この状況で「ありがとう」と言わないのは、その場の雰囲気が悪くなるだけではありませんね。せっかくアドバイスをした人も、「ありがとう」と伝える相手も、どちらの気分も害してしまいます。しかし、「ありがとうと言う」行為がとんでもなく苦痛だとしたらどうですか?全身を針で刺されるように、吐き気をもよおすほど。そんな不快感を感じていたら相手を不愉快にさせてしまったとしても、なかなか「ありがとう」とは言いにくいものです。堪え難い不快感、それが「ありがとうと言わない」理由です。
どちらにも言い分があって、間違ったことを言ってないと思います。
定型の皆様は「優しい嘘」という表現で、「ありがとうと言う」苦痛を和らげるという発想が思い浮かびますか?
ASDの皆様は3人の登場人物とそれぞれの気持ちをすぐに想像できましたか?
この事例から、同じことが起こった時に感じていることも違えば選択も違ってくる。ということがわかるんじゃないかと思います。
というわけで「言語の違い」について説明してみました。
お互いの思考回路が違うので、私も自分の気持ちを定型の人に伝えるときは「翻訳」しなければなりません。逆に、定型の人の言葉を受け取るときには「翻訳」しなければ理解できません。
ここまで読むと「中身がわかるように発信している人」が少ない理由は理解できるんじゃないかと思います。なので、「引き続き貴重な発信、お待ちしております」というのも、どんだけ考えて言葉を「翻訳」して伝えなければならないのか……と思うと「失礼だな」と感じてしまいます。
あくまで個人的な見解なのですが
ASDの人が怒っているときは大概、この「言語」の違いなんじゃないかと思うんです。世間一般の言葉を受け取るために、どれだけ「翻訳」に労力をかけているのか。それも知らないで、勝手なこと言わないでくれよ……と。
定型の人が怒っているときは、「理解」に対しての労力なんだと思います。あなたのことをこんなに理解して、いい方向に向かうように工夫しているのに伝わらない。どうしてこんなに一生懸命伝えようとしているのに、受け取ってくれないの……と。
どちらも正しい気持ちであり、意見であると私は思います。
だから、私の言う「相互的な行為」というのは
お互いの「言語」を理解し合うことです。
思考回路と表現するよりも「言語」のほうがわかりやすくないですか?
さて、ちょっとお気楽に(笑)
心の暗い部分を晒そうと思ったら説明でこんなに長くなってしまいました。
というわけで……次回に続く!⇒ASD 心の暗い部分を晒します②