ASD 心の暗い部分を晒します②
前回の記事で書きました「言語」の違い
こちらを読まれてない方は読んでみてください。
じゃないと、今回の話が通じません笑
さて、それなりに深い心の傷、葛藤、努力がどういうことか説明しようと思います。
私にとって「世間」というのは悪意を持って自分を傷つけてくる存在です。
幼少期から現在まで頻繁に傷つけられてきました。
「英語」を話す人=世間
「日本語」を話す人=自分
()=自分の気持ち
としてみましょうか。
日本語を話す自分は、英語を話す世間と意思疎通をしたいと思いました。
「英語を話したいからちょっと教えてくれる?」
と世間に頼んでみました。(意を決して)
「なんで?普通に話せるじゃん。教える必要ないでしょ」
と言われてしまいます。(傷つく)
自分が世間に話をすると「日本語はわからないよ。英語で話してくれる?」
と言われます。(傷ついて葛藤)
仕方なくたどたどしい英語で苦労しながら話します。
「何言ってるの?よく意味がわからないよ」
と言われてしまいます。(傷ついて落ちこむ)
「英語はよくわからないよ。日本語で話してくれる?」
と世間にお願いしてみました。(屈辱)
「日本語なんてわからないよ。どういうふうに使うか英語で教えてくれる?」
と言われてしまいました。(傷ついて絶望)
こういうことが幼少期から非常に多いです。
「世間の英語」がわからない上に、世間は「英語で説明」することを求めてきます。
なので、私自身は世間の英語を「翻訳」することを覚えるしかありません。誰も教えてくれないし、学ぶにしても先生がいないのです。
ある日、ポロリと愚痴をこぼします。
「どうやら世間の英語がわからなくて、うまく世間と接することができないんだ。困ったなぁ」(本心)
「そんなこと誰にだってあるよ。英語で話してたってそういうことがあるんだから」
と言われてしまいます。(本心否定で傷つく)
そう意味じゃないんだけどなと思い、一生懸命日本語で説明します。(努力)
「すごく自分勝手な言い草だ。もう少し言い方を考えた方がいいよ」
と世間から言われてしまいました。(否定されて落ちこむ)
失礼な話、定型が発達障害にするアドバイスというのは発達障害の人には伝わりにくい上に傷つく言葉のオンパレードだなと思います。
逆に発達障害が定型に問いかける疑問というのは定型にはトンチンカンで的外れに見えるだろうなと感じます。
上記にある「もう少し言い方を考えた方がいいよ」は
定型にとっては発達障害のためのアドバイスで「愛情」だったりするのですが
発達障害にとってはただの「傷つく言葉」だったりします。
さらに、誤解という部分で言うなら「翻訳」に問題があるのだと思います。
例えば
「My name is 世間.Nice to meet you.」と言われたとします。
私は考えます。
えっと、「My name」が「自分の名前」で、「is」は「です」だよな。「世間」はこの人の名前か。ということは、「私の名前は世間です」って言ったのか。
「Nice」は「良い」だったっけ。「to meet」は「会えて?」かな。「you」は「あなた」だから私のことか。「あなたに会えて良い?」なんだか意味がわからないけど、多分そんな感じの意味だよね…
「翻訳」するまでにかなりの労力がかかってますね。さらに、意味が微妙に違います。「Nice to meet you」を「はじめまして」と訳せなかった私は、世間に対してトンチンカンな答えを返してしまうでしょう。
そこで世間は考え直し「私の名前は世間です。はじめまして」と言ったとします。
ホッとした私は「最初から日本語で言えばいいじゃん」と返します。
自分が苦労して英語に「翻訳」したにもかかわらず。相手もそのように苦労して日本語に「翻訳」してくれたのかもしれないのに。
しかし「言えばいいじゃん」に悪気はありません。なぜなら自分は普段から「翻訳」に苦労していて当然なので、世間が苦労していることは普通のことだと思っているからです。
「日本語に翻訳して伝えるのにこんなに苦労している。どうしてわかってくれないんだ?」と世間が言ったとしても
「それぐらい当然のことでしょう。むしろ、こっちは英語に翻訳しながら話しているのに全然わかってくれないよね」と私は返すでしょう。
そこが定型と発達障害の間に起きる衝突なんじゃないかと思います。
そして、その「翻訳」をしてくれるのが精神科やその道の専門家の方々です。
そのような方々に相談することで、多少はお互いの「言語」を理解し合えるのではないかなと思います。
専門家への相談に関してはこちらの記事を参照してください
発達障害に対して
「本人が無自覚で気付かせたい」
「迷惑行為を自覚して改心して欲しい」
という意見が多いなと思います。
どうしたら改善されるかはそれぞれの事例によるので、具体的に言及するのはやめておきます。
ここで言いたいのは、なぜ「気付かなくて」「無自覚」に見えるのかというところです。
以前、母にも
「あんたの“気にしない力”が羨ましいよ。私もそういう風になれたらいいんだけどねぇ」
と言われました。
この言葉には傷つきました。
「そんなことないよ。〇〇とか▲▲とか。気にしてることは沢山あるよ」
「それは普通のことでしょ」
じゃあ、私は何を「気にしてない」のでしょうか。
このことについて、母は根気よく説明してくれました。本当に根気よくです。お互いの「言語」を借りて擦り合わせながら、時間をかけて解決してきました。
なぜ「気付かなくて」「無自覚」なのか。
定型言語を使ってASD言語と接しているからだと言わざるを得ません。
だってASD言語から見れば発達障害の人は色々なことに「気が付き」 ながら世間と話そうとしているんですもの。
大まかに説明するとこんな感じでした。どうですか?わかりやすかったでしょうか……
世間と話すために傷つけられ、どうにか話せないかと努力し、本心をこぼすと否定されて葛藤するという事態。
だからこそ、お互いに「言語」を理解し合う。
これほど大切なことはないと思っています。